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人生朝露

人生朝露

八雲とユングと胡蝶の夢。

悪かったわね!
荘子です。

小泉八雲。
小泉八雲と荘子について書いています。

当ブログ 小泉八雲と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5046

荘子と進化論 その43。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201003210000/

----(以下引用)-------------------------------
 思うに、生まれ故郷を離れて旅をしたことのない人は、幽霊(ゴースト)というものを知らずに一生を過ごすのではないのだろうか。しかし、漂泊の旅人は幽霊のことを良く知っているようだ。漂泊の旅人というのは、文明人のことである。何かの楽しみのために旅をするのではなく、ただひたすら己の存在につき動かされて旅に出る人のことである。
 内に潜んだ生まれつきの性が、たまたま自分に属してしまった社会の安逸な状況に溶け込めない。そのような人は、教養も知識もありながら、わけもなく衝動の虜になっているに違いない。その衝動が圧倒的で、しかも世俗的な欲望をもことごどく蹴散らしてしまうことに、本人自身も戸惑ってしまうのだ。
・・・そのような衝動は、おそらく祖先の性癖に由来するのではないだろうか―――つまり、遺伝的な特質だと説明すれば合点がゆくのではななかろうか。それとも、そうではないのであろうか。漂泊の衝動の虜になった人はただ、初めから自分の中にあった渇望の幼虫が育って成虫になったのだと思うしかないのだ。限りある生の連鎖の中で、長い間内に眠っていた渇望が、時満ちて溢れ出したのだと・・・・。
(中略)漂泊の衝動や感覚といっても、ある人間にだけ固有のものはあまり重要ではないし、意味もなかろう。しかし、安住を知らぬ漂泊者があまねく経験するものに共通する何かがあるとすれば、話は別である。そうした共通の経験とは、最後に選び取った究極の答えとなる。--理由なき別離、自暴自棄、突然の孤立、そして、愛着ある全てのものからの不意の断絶。ここから、漂泊の旅人の履歴が始まるのである。旅人は感じている、奇妙な沈黙が自分の人生に深く、静かに広がっていることを。そして、その沈黙の中に幽霊がいることを。(小泉八雲 『幽霊』より)
-----------------------------(引用終わり)----

晩年の小泉八雲は、間違いなく荘子に共鳴しています。芭蕉の向こうにいる荘子をね。

参照:荘子と進化論 その42。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201003050000/

・・・で、この『幽霊』の中で、小泉八雲は不思議な独白をしています。

----(以下引用)-------------------------------
一方、全く目的の無い放浪の途中で、何かに取り憑かれているのではないかという疑念が、ゆっくりと頭をもたげてくる。ある漠然とした存在が、繰り返し目に浮かぶようになるのだ。それは薄れていくどころか、しだいにはっきりと感じられるようになってくる。目に浮かぶたびに鮮明さを増しながら。・・・・そして取り憑かれているという思いは、徐々に確かなものになってゆく。
(中略)しかし、どこかもどかしい。こうして、絶えずそばにまとわりつかれていると、突然はっと呼び覚まされるように、ある感覚が心に蘇る。それも、自分のものではないような・・・。それは夢想家が遺伝的な記憶と呼んだものであろうか。前世の記憶なのだとうか・・・。虚しく自分に問いかける、「誰の声だ、誰の顔だ」と。その顔つきは若くもないし、老いてもいない。朦朧とした謎に包まれ、透明で色つやも失せている。
(中略)――「お前は誰だ。何者だ。なぜわたしにつきまとうのか?おまえの言うことはみな、いつか聞いたことがあるような気がする。だが、それはどこだったのか、いつだったのか・・・。おまえを何と呼べばいいのかもわからない。私が知りうる限りの何ものでもないからだ。たしかに、おまえは生けるものではない。しかし、わたしは亡くした人々の眠る場所は知っているが、おまえが眠るところは知らないのだ! おまえは夢ではない。夢であるならば、歪んだり、移ろったりするが、おまえはいつも変わることはない。おまえは幻覚ではない。わたしの感覚は鮮明ではっきりしている・・・。ただ一つわかるのは、おまえが過去のものだということだ。おまえは記憶の世界のものにちがいない。しかし、それは遠い古の記憶なのか・・・・・」
-----------------------------(引用終わり)----

小泉八雲は1904(明治37)年に亡くなりましたが、その後、西洋に面白い人物が現れます。彼と似たような夢を見る人が出てくるんですよ。

----(以下引用)-------------------------------
夜、どこか見知らぬ場所だった。私は強風に逆らって、ゆっくりと苦しい前進を続けているところだった。深い霧が一面にたちこめていた。私は両手で、今にも消えそうな小さな灯りを囲っていた。すべては、わたしがこの小さなあかりを保てるかどうかだった。不意に、何かが背後からやってくるのを感じた。振り返ってみると、巨大な人影がついてきているのが分かった。しかし、そのときの私は、恐いにもかかわらず、どんな危険があろうと、この光だけは夜じゅう、風の中で守らなければならないことを意識していた。目が覚めた時、私はあの人影が、・・・自分の運んでいた小さな光が渦巻く霧の上に作り出した私自身の影だと分かった。(中略)この夢は私には大いなる啓示だった。そのときの私は、No.1が光の運び手であり、No.2は、No.1の影のようについて回っていることを知った。(中略)No.1の役割として、私は勉強、金儲け、責任、紛糾、混乱、過失、服従、敗北に向って進まなければならなくなった。私に向ってやってくる嵐とは、止まることなく過去へと流れていく時であった。過去はわれわれに絶えずつきまとう。それは生きとし生けるものを強烈に吸い寄せ、吸い込んでいく。われわれが――しばらくの間――過去から逃れるためにはひたすら前進するしかない。過去は恐ろしくリアルで、実在する。それは、申し分のない答えで自分を護れない者はすべて捕えてしまう。
-----------------------------(引用終わり)----

----(以下引用)-------------------------------
背景のどこか奥深いところで、私はいつも自分が二人の人物であることを知っていた。一人は私の両親の息子で、学校に通っていて、他の多くの少年たちより利口でも、注意深くても、勤勉でも、礼儀正しくも、身ぎれいでもなかった。もう一人の人物は、おとなで――実際老いており――懐疑的で人を信用せず、人間からは疎遠だが、自然すなわち大地、太陽、月、天候、あらゆる生き物には近く、なかでも、夜、夢、『神』が直接に彼の中で作るいっさいのものとは近かった。(中略)卑劣で、虚栄心に満ち、嘘つきで、嫌なくらい自己中心的な『人間』よりも、高い山、川、湖、木、花、動物などは、神の本性をよりよく表していた。(『ユング自伝』より)
-----------------------------(引用終わり)----

というわけで、次なる荘子読みは・・・
C.G.ユング
カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung、(1875~1961))であります。

参照:Wikipedia カール・グスタフ・ユング
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%B3%E3%82%B0

Zhuangzi
網兩問景曰。「曩子行、今子止、曩子坐、今子起。何其無特操與?」景曰「吾有待而然者邪。吾所待又有待而然者邪。吾待蛇付蜩翼邪。惡識所以然。惡識所以不然。」
→モウリョウは影に向って問うた。「おまえは、動いたかと思えば止まり、座ったかと思えば起き上がっている。なんでそんなに節操がないんだ?」影は応えた。「俺は何かにそうさせられているのさ。その何かもまた何かにそうさせられているのさ。俺は蛇であれば鱗、蝉で言えば羽みたいなものなのかもな。どうしてそうなっているのか、どうしてそうならないのかも分かっていないんだ。」(『荘子』斉物論 第二)

モウリョウってのは、影の外側にあるぼんやりとしたものです。それが影としゃべっっているわけです。俺たちは、何によって動かされているか・・。

そして、この直後にあるわけですよ。
Zhuangzi
昔者荘周夢為胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喩適志與。不知周也。俄然覚、則遽遽然周也。
不知周之夢為胡蝶與、胡蝶之夢為周與。周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。(『荘子』斉物論 第二)
→昔、荘周という人が、蝶になる夢をみた。
ひらひらゆらゆらと、彼は、夢の中では当たり前のように蝶になっていた。自分が荘周という人間だなんてすっかり忘れていた。ふと目覚めると、彼は蝶の夢から現実の人間・荘周に戻っていた。まどろみの中で、自分は夢で、蝶になったのか?実は、蝶の夢が自分の現実ではないのか?そんな考えがゆらゆらとしている。自分は蝶だったのか、蝶が自分であることなんて・・自分と蝶には大きな違いがあるはずなのに・・。

多分、21世紀の人間にとって『荘子』を読んで一番最初に感じるのはユングなんじゃないかと思います。「集合的無意識」「アニマ・アニムス」「影」「シンクロニシティ」どれをとっても、ユングを下支えしてるのは、老荘です。西洋人ってのはここなんですよね。

C.G.ユング
『タオイズムはきわめて普遍的な性質を持つ心理学的諸原理を公式化したものである。人は隠されていた真理に結果的に目を開かれるようなかけがえのない心理的経験をさせられるが、それがなぜ、いかにして起こるかについて考えるのは、きわめて難しくて、ほとんど不可能である。真理はいついかなる場所でも同一である。私が知る限り、タオイズムはそれをもっとも完全に公式化したものの一つと言わなければならない。』(デイヴィッド・ローゼン著「ユングの生涯とタオ」より、ユングの言葉。)

KWAIDAN
ラフカディオ・ハーンが、日本の奇談を収集したのは、やっぱり、そこなんですね。東洋人の深層意識です。

参照:初音ミク、かごめかごめ(童謡)
http://www.youtube.com/watch?v=i0g7gBWXnJw

♪後ろの正面だ~~れ?

今日はこの辺で。


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